【エッセイ】アニメーションで放たれる世界

アニメーション

アニメーション好きが、アニメーションから生まれる世界について語っているちょっとした文章です。⚠︎:転載・引用禁止

※アイキャッチ画像においたのは、文中にも登場するアイルランドのアニメーションスタジオ「カートゥーンサルーン」のアートブックです。アイルランドからはるばるやってきました。ちなみにカートゥーンサルーンはポスト・ジブリと呼ばれるような素晴らしいアニメーションスタジオです。オンデマンドでもそれぞれ鑑賞できる作品があるかと思いますので是非気になった方はご覧ください。(また詳しい記事を書きたいと切望しています。大学が落ち着いたら。)


アニメーションで放たれる世界

arai yuuuki

 しも一度はアニメーションの世界に引き込まれる経験をしたことがあるだろう。映像作品において鑑賞者は映像作品をみるというよりも、スクリーン又は画面の中に吸い込まれてそれぞれの世界の空気を味わい体験している、と言った方が適切だとしばしば感じる。これは実写の映画でもアニメーションの映画でも同じことが言える。しかし、アニメーション作品の魅力又は可能性の本質は実写の映像作品が持ち得ない何かにきっとある。

 賞者が作品の世界に引き込まれる。それはキャラクターがリアルだからとか背景が写実的だからといった表面的な要素からではない。そう感じたのは、アイルランドのアニメーションスタジオ、カートゥーンサルーンの『ブレンダンとケルズの秘密』(2009)を鑑賞した時だ。

この作品の特徴として、全体的に平面的なタッチで描かれている。西暦800年前後にアイルランドの修道士によって描かれ、世界で最も美しい写本として知られるケルズの書の世界観をストーリーのみならず背景や作品中の世界すべてに表現しているのである。この背景は決して写実的とは言えず、むしろパースを無視して描かれているが、それによって独特な世界観の形成に成功している。みる者は作品全体を通じてケルズの書の世界に引き込まれる。現実離れした世界でも簡単に引き込まれてしまうのがアニメーションの魅力の一つだ。

 ニメーションという言葉が日本で広まる前は、漫画映画という言葉で広く知られていた。このことからもわかるように、日本のアニメーションは漫画の映像化が主となって現在に至る。しかし、個人のアニメーション作家や中規模スタジオのアニメーション等広く目を向けると、それがすべて漫画映画と言い換えられるものではない。◯◯映画と言い換えるならば、絵本映画やモダンアート映画、切り絵映画などと幅広く言い換えることができる。しかし、この包み込まれる世界観は必ずしも単純に言語化できるものにとどまらないのではないか。この言語化できない部分こそがアニメーションの分野で表現できる世界観の無限なる可能性だと思う。アニメーションによって体験できる世界は何も既存する世界だけにとどまらない。自身の頭では考えられないような世界でさえもアニメーションという一つの媒体を通じてそれぞれの世界に入り込むことができるのである。アニメーション作家の誰もが「私」の世界観を表現すべくアニメーションを用いて他と共有する。この世界観は人間の想像の許す限り、限度はないだろう。

 像テクノロジーの発達、特にCGの高度な技術によって、実写とアニメーションの区別がつかなくなる未来が予想されるが、これはアニメーションという一つの芸術媒体を考える時にはたいしたことではない。それよりも、高度な映像テクノロジーとデジタル化によって、今まで大勢のスタッフの力で制作されていたアニメーションも、個人単位で制作することが容易になってきている、という所に注目したい。それによって、アニメーション専門の人間のみならず様々な分野の人間がアニメーションを通じて各々の世界観を発信し始めている。個人で制作するアニメーションは、大勢で制作するものに比べ「個」の世界観の要素が強くなるのは当然である。これからの時代、アニメーションを通じて「個」の世界により簡単に入り込み、垣間見ることができるようになりそうだ。


yuuuki
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実はこれは大学のゼミで書いたちょっとしたエッセイ。行が決まっていて、その行内で書くというエッセイです。書いたからには読んで欲しいな〜と思って載せてみました。巧妙なエッセイでは全くもってありませんが…

というか、こういうのってブログに載せていいのかな?もしダメってわかったらすぐなかったことにします(笑)コメントで教えてください。

アニメーションの世界や、魅力、作品の数々を当ブログで発信してけたらなと思っています。

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